今レトロな銭湯に魅力を感じるのはなぜか? 



こんな近未来風なビルが立ち並ぶ背後には懐かしい町並みとその中には愛すべきレトロな銭湯もひっそりと営なまれている。

■銭湯の当初の役割   

私たちが愛するいわゆる普通の「銭湯」とは、「公衆浴場」に分類される。 
昭和23年7月15日に施行された公衆浴場法に基づくものだ。 
この法律が施行された昭和23年当時は、 各住宅に内風呂がなく、
健康、公衆衛生のため地域住民のための公衆浴場が生活上の必需な施設だった。  
しかし現在は内風呂が普及し、愛知県内では九〇パーセントの普及率。
市内の例をとると、緑区では九八パーセント以上と なっている。
その為、新たな公衆浴場の設置は当初の目的の上では不要となった。
現状の数で残りの2パーセントは カバーできるとしている。 

 その目的のゆえに銭湯の入浴料金は自治体が物価統制令で定めているのだ。  
名古屋市内においては昭和四六年以降通常の公衆浴場は新設されていない。
つまり今ある銭湯は減ることはあっても これから増えることはありえないということになる。



■近未来に過去の思い出
 

これら私たちの愛する銭湯の時代からすれば今は近未来の時代だ。   
あのころでは考えられない様々な科学技術、生活水準の向上を獲得した。
しかし同時に、多くの大切なものも 同時に捨て去ってきたのではないだろうか。
これは私の持論でもあるのだが、    

     「人間は記憶でできている」
 

 と考えている。 人は自らをその記憶をもって自我を確認しているとする考えは比較的ポピュラーなものだ。 
銭湯とは話が飛躍するが、遺伝子分野での技術向上により、倫理観の云々はあるものの、人間のクローニングも
現実のものとなってきた。 だが、複製された人間がいたとしても、元の人間と同一の「人」ではないだろう。 
それは彼ら2人のもっている記憶が異なるからだ。     

 ところで、精神障害の中に「解離性同一障害」という病気があるのをご存知だろうか?  
 「多重人格」という言葉のほうがメジャーかもしれない。 一人の人間が複数の人格を備える病気だ。 
 これは記憶の断裂により生じるという有力説がある。 つまり記憶がちぎれると、それぞれが別の「人」として 
存在するようになってしまうというのだ。 
もともと一人分の記憶だから、ちぎれてた記憶(人格)の入れ物も一人の人間となる。  
このことはまさに人が記憶で出来ていることを物語っている。   

 つまり人間は記憶を確認することによって自己を確認する。  では記憶を確認するにはどうするのか?
過去に経験したものをたどる、それらに向き合うことでそれらが可能となる。 
人が「懐かしい」とかんじるこの安堵感はこのようなところに由来しているのではないかと考えて止まない。   

 レトロ(懐古)と似た言葉に「ノスタルジー」という言葉がある。 
ノスタルジーとは、17世紀の医師ヨハネス・ホッファーが考案した言葉で「故郷」を意味する。 
祖国を離れた者が日々弱ってゆく様子を表現する医学用語としてギリシャ語の
 「ノストス」(帰郷)+「アコゴス」(苦痛) → ノスタルジー と命名したことが由来だ。   
私たちが故郷を大切にしたり、ノスタルジーに浸ることがあるのは、自らの記憶を、ひいては自らを確認する
手段として無意識のうちにそうしているからなのかもしれない。


■銭湯の今
 

 理屈っぽいことを書いてしまったが、つまるところ、銭湯は私たちの記憶を、大げさにいえば私たち自身を確認する 
大切な材料なのだとすることもできるだろう。 もっとも小さいころに銭湯に通ったことがないという人も、
団塊世代ジュニアあたりまでならば同様のノスタルジーを感じることができる。 というのも子供時代に遊んだ自宅や友人宅、 
あるいは周囲の状態がそこには保存されているからだ。   

 まさに近未来になってしまった現在における過去の思い出は銭湯の中に現在進行形で生き残っている。  

 私たちは過去に自らの健康と衛生を守るための銭湯を、今度は自らの記憶を守るものとしてとらえる時代に
ひょっとしたら、さしかかっているのかもしれない。    

 だからそれらに気づいてしまった者は、失われるときにとても寂しく感じるのだろう。  

 スーパー銭湯では疲れがとれない、癒されない、という声もある。おそらくそれらの声は肉体的に疲れを取るだけでは
本当の意味では癒されはしないことを言っているのではないだろうか。
そういう意味では建物のレトロ具合だけではなく 古きよき時代の人のあたたかさを感じられる番台とのやりとり、
他のお客との雑談などの地域の和を作る場所 という役割は重要なファクターだ。 

 そんな視点でご近所の昔からある銭湯を一度訪れてみたら、いつもとは、ちょっとちがった湯加減を味わえるかもしれない。   



参考文献  
        名古屋地決1997.2.21判時1632-72(スーパー銭湯)
              http://www.law.kyushu-u.ac.jp/~kado/kyusai/nagoyatihan970221.html
        精神学者 服部雄一氏のHP  
              http://www.sixam.co.jp/shinri/mpd/mpd3.html

       

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